2007年4月 6日 (金)

IFSA注目のマイナーな記事=悲惨な児童虐待。子どもを「私有物」とさせない規範をこそ

◇全国紙のHPから気になる記事を収集し、PCへ保存する作業を毎日行ってほぼ6年になるが、そのなかに「子ども・青少年・虐待・いじめ・児相問題」というタイトルのファイルがある。◇当然ながら、ここにデータが蓄積されていくことほどつらいことはない。そんななか、以下の報道が飛び込んできた。

★★転落死:3歳児がベランダから 両親はパチンコ中 大阪
(Mainichi  INTERACTIVE・2007.04.02)

◇「玄関は施錠されていたが、室内からベランダに出る扉は半分ぐらい開いていた」ので、まだ3歳の女児がベランダに出、エアコンの室外機にのぼって転落したのではないかという。◇女の子は、両親を求めてベランダの柵から下を見やったのだ、と私などは考えてしまう。想像するだけで悲しい話である。◇「同じマンションに住む主婦は『両親はパチンコの常連客だったよう。○○ちゃん(筆者註-記事は実名)が靴もはかずにエレベーターに1人で乗って”お父さんは”と捜しているので、心配したことがあった』と話した」という事実が、そのことを暗示している。

◇不用意にもベランダ側を開けていって→ベランダに危険な台をおいて→いや、そもそもパチンコがけしからん。即物的な反応はいろいろあろう。◇しかし第一義的には、3歳の子をほったらかして外出(遊びだろうが仕事だろうか)してしまうその神経。◇生まれたばかりの赤ちゃんが寝ている間、20分ほどスーパーへ食事の買い物にといったものとは根本的に違うのだ。◇04.02のテレビ朝日「報道ステーション」で古舘伊知郎がいみじくも言ったように、まさに「子どもが子どもを育てている」状態といえる。  (「舘」の左側は「舌」ではないのだが、PCに文字はなし)

◇まあ、こうした人間を生まないための、幼少期よりの教育も含めた社会構造の変革が根本だとしても、喫緊の課題は、子どものいのちをいかに社会的に守っていくかだろう。◇このケースは物理的虐待ではないにせよ、「ネグレクト」という名の虐待に近い。何しろ「靴もはかずにエレベーターに1人で乗って”お父さんは”と捜しているので、心配したことがあった」というのだから。◇普通、3歳児がそんなことをしていたら、これはもう極限状態と認識されてしかるべきだろう。多分、近所でも話題になっていたと思われる。

◇私の上記PCファイルは、子どもが犠牲になる記事で埋められているが、そこから気になるタイトルを抜き書きすればこうなる。

★★止まらない児童虐待 過去最高、前年比1000件増(Chunichi Web・06.06.29)
◇「二〇〇五年度に全国の児童相談所が児童虐待に対応した件数は、三万四千四百五十一件(前年度からの繰り越し分を含む)で、過去最高だった前年度(三万三千四百八件)を千件以上、上回ったことが二十九日、厚生労働省の集計(速報値)で分かった」。

★★児童養護施設パンク寸前に 虐待急増で緊急避難(Chunichi Web・06.03.30)
★★【関連】『まるで野戦病院』 心に傷 子ども続々(同)

★★児童虐待:警察庁通達 子供の救済優先 児相に重荷、被害続き
(Mainichi  INTERACTIVE・06.09.26)

◇「04年の改正児童虐待防止法は、虐待があったとみられるだけで国民に通告を義務づけたが、親が児童相談所の立ち入り調査を拒否した場合などに、警察官がドアをこじ開けるなど強制的に家庭に立ち入ることについては、虐待に取り組む弁護士らからも『裁判所の許諾が必要』などの意見が強く見送られた」。◇「『ドアを施錠し立ち入りを拒む親に児相や警察がどこまでできるか。関係法令を政府全体で見直すべきだ』。首都圏のある児童養護施設の施設長は話す。この施設のここ2年間の入所児十数人のほぼ全員が、虐待の被害児童だ。施設長は『当直の夜の見回りで、眠りながら涙を流したり、泣き叫ぶ子を見ることがある。それでも寝顔を見ながら”よく生きてきた”と思う』と話している」。

◇そんななかでまた起きてしまった以下の事件。これは記憶に新しい。
★★京都・3歳餓死 「おむつ取れずしつけ」同居の女、供述
★★死亡時、平均体重の半分 京都・長岡京の3歳児虐待事件
(いずれもasahi.com・06.10.23)

◇たった3歳の子に、おむつが取れないためのしつけと称して食事を与えない。◇論ずる以前の異常ぶりだが、児相はまたまた以下のような体たらくなのであった。

★★京都3歳餓死:通報5件、児相動かず 住民の声生かせず
(Mainichi  INTERACTIVE・06.10.24)
★★児童相談所に民生委員から通報4回 3歳虐待死事件
(asahi.com・06.10.25)

◇日本という国の<公>は、「やり過ぎ」によるマイナス査定をおそれるあまり、判断に迷う場合は間違いなく、減点の少ない「やらなさ過ぎ」につく。◇だから当然のこと、法でしっかり規定されているもの以上の踏み込みはしない。たとえ目の前で、子どもがひどい虐待を受けているのが自明だとしても。◇それどころか、法で定められていてさえシカトするケースも多々見られる。ストーカー事件における警察の対応など、その最たるものだろう。

◇だからこそ、残念ながら、どうしてもという分野へは、進歩主義者の反対を押し切ってでも「法」を制定するしかないのだ。いのちを救うために。◇そしてその前に、弱者としての子どもは、社会規範の欠落したバカ親の私有物ではなく、社会のものだという認識を各人に徹底させる必要があろう。◇今度は保守主義者からの、「それではあまりに社会主義的!」の批判に抗しつつ。◇ここでもまた、どうしようもない教条主義的な進歩主義者と保守主義者とが、双方から日本の社会を阻害する現実に直面することとなる。

◇先日、横の路地から手も挙げず、私の前に入ってきた若夫婦のクルマを見て驚いた。◇運転の父親が2歳くらいの幼児をひざに乗せ、ハンドルを握らせている。◇シートベルトうんぬん以前の問題で、いざというときには子どもをエアバッグがわりに使おうという魂胆だろう。◇いや、そこまでもアタマが回っていないから救いがたい。◇こういうのは直ちに検挙。そうした法律が早急に求められる。そのために官憲国家と指弾されようが、それは大いに結構なことではないか。(敬称略)

★★[IFSA]★★阿部道生

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2007年1月10日 (水)

子どもって、親が作り上げた商品なのか

◇正月明け、心臓専門医の許可を得て、昨夏の入院後はじめて飛行機に乗った。リスク軽減の意味から、国内では最短距離に属する東京-大阪(伊丹)間を利用。◇1泊目は京都、2泊目は大津に宿をとったが、街歩きについては週末連載の「散歩の凡人」に譲りたい。

◇旅の2日目、県庁所在地にしては超閑散のJR大津駅に降り立ち、ゆったり階段を下っていくと、前には母親に連れられた小さな子が2人。私にはヨチヨチ歩きに毛が生えたくらいにしか見えない。◇子ども好きのわれわれ夫婦のこと、かわいいと言いながら、おそろいの背中のバッグに目をやれば、「kids academy」のロゴが。

◇親は誇らしげに背負わせているのだろうが、こちらはとたんにゲンナリ。◇2年ちょっとの赤ん坊段階を脱するや、子どもはすぐさま親の商品と化すのが現実のようだ。◇私の住む板橋の駅でも、夜の9時すぎ、Nのマークを付けた大きなカバンを得意そうに背にするガキどもと、それを駅まで迎える親をたくさん見かける。◇あまりに貧しい光景ではないか。

◇先日触れた野依良治教授の「塾禁止論」が現実味を帯びるのは、こうした社会現象に接したときだ。◇こんな風にいえば、社会主義的統制はケシカランの反論が出るにきまっている。◇だが、自分たちこそが、まさに悪しき共同幻想といった、それこそ社会主義的潮流にモロ乗っていながら、一方でご都合主義の自由を唱えるのだからわらってしまう。

◇これらに対するもっとも有効は方法は、塾通いなどダサイ、ずれている、社会から取り残されているといった方向性を社会的に構築し、実績を示していくこと。◇そうすれば、もともと自分の信念で塾通いをさせているのではない「社会主義的思考」の親たちは、あわてて路線変換し、今度は新方向での先頭に立とうとすること必定だろう。

◇ところで、「上野公園論」執筆・出版準備のなかで出会った本のひとつに、「上野のれん会」が出した大部の書籍『うえの春秋』(80.05)がある。◇限定千部でナンバリング付。先日、ネットの「日本の古本屋」にて、青森市の書店から2000円で購入した。◇何と432ページ。文豪・芸術家・学者・実務者の、錚々たるメンバーが書いている。◇あまりに魅力的なので京都旅行まで持っていき、その重さに肩がこってしまった。

◇今回のブログ内容に関連すれば、岡野俊一郎(サッカー)・杉浦宏(上野動物園)・無着成恭(明星学園)・荻さく子(TBS)による「現代こども気質」が無類のおもしろさを誇る。◇TBSラジオの「こども電話相談室」をめぐる座談会であった。

◇「(前略)しかしいまの子は、自分でやってみて、それで判らなくて(電話相談室へ-筆者註)聞くのですかな」(岡野)。◇「(前略)箸の持つところが太くて先が細いのはなぜですか?なんでも素直にきくのはとてもよいことだけれども、きく前に自分で箸を逆さまに持って使ってみたらどうかと思っちゃう」(杉浦)。

◇「(前略)道元禅師が流石にいいことを言ってます。耳できいたことはすぐ忘れる、目で見たことはようやく覚えるが、本当に身につくのはやったことだけだ、智慧というのはそういうものだと(後略)」(無着)。◇「(前略)身のまわりのことの教育はレベルが低くて、生活から離れたもののほうが高級だと錯覚してるんじゃないのかな(後略)」(岡野)。

◇「(前略)富士山の登り口は一つだけでないということを教えるので、上まで連れてゆくことはないのです」(無着)。◇「いい加減のようにみえて。絶対にいい加減ではない」(杉浦)。

◇「母親と赤ちゃんはヘソの緒でつながっている、とよく言うでしょう。それが違う。胎盤に外側からお母さんの血管がいっぱい刺さって、それで栄養が伝わってゆくのだけれど、こんがらがってるようできれいに離れるのです。だからヘソの緒を流れるのは赤ちゃんの血で、母親と血はつながっていない。その証拠に血液型が違うでしょう。ということを大人は明確に認識すべきです。そうするとバーンと突き離(ママ)せるんですよ」(無着)。

◇「親が先に死ぬのが自然の順序ですね。死んだあとも、子供ひとりで生きてゆけるように教えるのが、親というものでしょうね」(岡野)。

◇新年早々に起きた、歯科医師一家での、兄による妹殺害事件。◇上記の話とは遠いようでいて実はきわめて近い、とIFSAは考えている。(敬称略)

★★[IFSA]★★阿部道生

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2006年11月24日 (金)

IFSA主張の「いじめの根因は日本のムラ社会に」。都留文科大教授の調査とも符合

★★いじめ:「なれ合い型」学級で発生しやすい 教師加担も
Mainichi  INTERACTIVE(06.11.24)

◇河村茂雄・都留文科大教授(心理学)の調査(全国の児童生徒約5万人)によれば、「教師が教え子に友だち感覚で接する『なれ合い型』の学級でいじめが生まれやすい」という。こんなクラスでは、いじめへの教師の加担すら見られると。◇この記事中、もっとも注目すべき指摘は、以下にある。「河村教授は『主に教師と教え子の関係で決まる学級集団の全体的な特性に注目すべきだ』と訴えている」。◇2006.11.20付の当ブログ「いじめ問題の背景には、近代化に反比例し、前進一途の『ムラ社会化現象』が横たわる」は、まさにこの点を述べたものにすぎない。

◇「学級集団の全体的な特性に注目すべきだ」を私の言葉で言い換えれば、「学級全体の共同幻想に注目すべきだ」となる。そしてその共同幻想の中身とは、学級・学校・教育界・行政・日本社会全般に蔓延し、ますます主流を張るムラ意識。◇「ルールが示されない学級では不安定な状態を避けるため、3~4人の小集団が多数生まれる。河村教授はこれを『不安のグルーピング』と呼ぶ。この小集団は排他的で、共通の秘密や共通の敵(いじめの標的)を作り出すことで結束を強める」(★★いじめ:『なれ合い型』指摘に現場でさまざま声・Mainichi  INTERACTIVE・06.11.24)との論説は、先のブログで私が述べた社会学的分析とぴたり一致だろう。◇要は、学校でのいじめは、単なる教育問題ではなく、日本社会論・日本人論の範疇にあるということである。

◇しかも、子どもばかりか、教師までもがムラ意識に最大の価値を置いているのだから、どうしようもない。いじめを認識していながら、「場の雰囲気」を大事にし、表面的で気持ちの悪い仲間意識醸成にみずからも手を貸す。◇さらには、こんな教師もいる。「教師には『1人で(問題事案を)抱え込まないで』と指導している。しかし『自分のクラスは任せてください』と公言し、報告や連携を怠る教師もいる。『対応は教師間の連携が大切だが、他の教師に迷惑をかけたくないのか』」(★★いじめ:実態認めぬ教師たち 『ママメール』恐れ遠慮も・Mainichi  INTERACTIVE・06.11.23)

◇ポイントは「他の教師に迷惑をかけたくない」の個所。先日指摘した、いじめられている子が実態を親には訴えない、その構図とまったく同じではないか。◇学級の子どもたちをも含めた仲間(ムラ)から、チクッたと指弾されることを、教師も極度に怖れる。それは共同規範に抵触する、と勝手に幻想するからだ。◇議論を公にすることほど、卑怯なものはないのだと。

◇そこへ、「『ママメール』恐れ遠慮も」(前出)が追い討ちをかける。ママチャリと言っているうちはかわいいが、ママメールともなればぞっとするだろう。◇この優れた取材記事は、生々しく続ける。「『”いじめ”という言葉を使うのは最終手段』。東京都内の小学校に勤務する30代の女性教師はそう言い切る。いじめを確認しても保護者に『加害者』とはなかなか言えない。なぜか。『対応の仕方を間違えたら(自分が)たたかれる』と漏らす。『先生はうちの子を悪く見ている』。そんな保護者の反発は容易に想像できる」(前出)と。◇それにかぶさるのが、恐怖のママメールというわけだ。

◇記事も言うように、得意の「裁判沙汰」が親から教師へチラチラと。さながらミステリードラマのように、「ウチの子どもがいじめている証拠でもあるのか」の強い示唆。◇ここには、戦後社会、というより、バブル後に肥大化した、もうひとつの「全体的な特性=共同幻想=ムラ意識」が如実に顔をのぞかせている。

◇そして教育界では、河村教授が分析した「なれ合い型」と、「教師が厳しく指導する『管理型』」の不毛なる二分法が跋扈し、永遠の論争を展開するのだ。◇「河村教授によると、教師の教え子への接し方には(1)有無を言わせず従わせる指導タイプ(2)子供の言い分を尊重する援助タイプ・・・・・・・がある」(前出)。

◇IFSA通信のサブタイトル、「『理念』に足をすくわれないactualな視点から」は、そうした日本社会の本質的欠陥を意識してつけられたものなのだが。(敬称略)

★★[IFSA]★★阿部道生

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2006年9月12日 (火)

若者における「横並び最優先」意識の帰結

◇小泉劇場も、もうあとちょっとで幕。本人は文字通りの外遊に身をやつしていて、国内で何が起ころうが関心の外だが、コイズミにあれだけ熱狂した国民の側も、政権が変わればその日からリセット(=チャラ)状態になるであろうことは目に見えている。日本という社会はいつもその繰り返しでやってきた。◇だからこそ、しつこいほどにあのフィーバーの中身を検証していく必要がある。

◇歴史に残る愚挙としての郵政解散。その翌々日(05.09.13)のChunichi Web Pressには、「小泉自民寄りくっきり 20代のココロ」と題する長文の分析記事が掲載された。優れた内容だが、なかでも私の心を捉えたのは、街で拾ったという若者のコトバだ。◇「小泉さんがいいと思ったのは、おれは死んでもいいと言ったこと。格好いいと思った」「いつその言葉を聞いたのかは忘れたけど…命がけでやってるというのが顔から伝わってきた。だから入れた」「やっぱり覚悟っていうの? そういうのが人生には必要でしょ」「ネットでみんなが自民党を支持してた。何となく行かなきゃと思って」「悪い人切るの なんかクール」 「亀井さんとか自民党の中の悪いのを敵にしてやったんでしょ、今回は。そういうのをズバッと切ったんでしょ。なんかクールっていうか格好いいじゃない」◇ある意味で、現代若者のrealisticな文言ばかりが並ぶ、生きた素材となっている。

◇「死んでもいいというような、命がけで悪にズバッと斬りつけていく、クールな覚悟が格好いい」。これを逆から言えば、若者にとってこうした世界ほど遠いものはないということだ。だからこそ、コイズミの物言いに憧れ、そこに代理体験を求めることとなる。◇その際、中身などはどうでもいい。評価基準はスタイルがすべて。内容を評価する力を最初から持ち合わせていないのだから、これもまた当然の成り行きだろう。◇オレにできないことを、いとも簡単にやってのけるコイズミのおっさん。若者はその一点にしびれまくったのだ。

◇上記で亀井さん云々と発言したコンビニの店員は、次のようにも言う。◇「ぜんっぜん政治には興味ない。テレビ見てるけどバラエティーばっかりだし、ニュースになるとチャンネル変えるし。新聞は一度も読んだことない。悪いけど」(同上・Chunichi Web Press)。そして今回は、両親の誘いで投票へ行ったという。◇大学生でも新聞を読まないなどは今や常識。新聞には、彼らの希求するスタイル、渇きを癒やしてくれる装置がないからに違いない。われわれの世代は、分からないながらも小学生の時より新聞に目を通していたものだが。

◇以上の背景には、とにかく仲間内から突出してはいけない、目立ってはいけないの若者風土がある(詳しくは拙著『変わりたい日本人 変わりたくない日本人』参照)。それを価値の最優先基準にもってくれば、「ズバッ・覚悟・クール」などの過激なベクトルがグループ内で禁句になるのは自明。◇唯一解禁されるのは、自身の属する小集団が共同幻想的に「それでいこう」となった場合のみ。こうなったらひとりだけ反対するわけにはいかないから(異論を挟めば、逆に仲間から突出してしまうから)、何の価値判断もなく付き従うことになる。しばしば報道される集団的暴発は、この原理に基づく。

◇とにかく、彼らにとっては「私ひとり」ほど怖いことはない。◇教育社会学者の竹内洋が、『大衆モダニズムの夢の跡』(新曜社)で喝破した「イカトウ・イカキョウ」。すなわち、いかにも東大生・いかにも京大生と見られてしまうことへの恐怖感。東大生・京大生が不自然なまでにidentityを押し殺し、同世代の仲間へ何とか同化しようとする涙ぐましい努力がそこにはある。

◇朝から晩まで、横並びからはずれていないかを気にする生活の圧迫感が、コイズミへの共感を生み出しているとも言えよう。◇祖父のDNAを引き継ぐかのような、あの喧嘩好き・喧嘩上手、そして論理を超えたタンカが、横一列に窒息しそうな若者にはたまらないのだろう。

◇このことは、若者ばかりか当節の日本人全体にも言えること。特に、主婦層や団塊の世代にもあてはまる。◇となれば、ファイティングポーズが堂に入ったコイズミの対極に位置する、単なるお坊ちゃまの安倍晋三では、人気の維持は難しい。◇さあそれでは、小泉引退後の日本人は「代償行為」をいったいどこへ求めるのだろう。偏狭なナショナリズムにか、それとも、さすがにそれはと立ち止まるのか。◇ただ、安倍にとっての生命線はここにしかないから、お坊ちゃんが背伸びを始めるときこそ要注目!北鮮問題で分かるように、迫力のないことこの上ないにしても。(敬称略)

←←★★[IFSA]★★

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2006年7月 3日 (月)

奈良の高1放火殺人事件が教えること

新設の当ブログアドレスへは今日から執筆開始です(昨日アップ分はすべて、旧アドレスから移行の文章です)。できるだけ毎日綴っていきますので、ご愛読ください。それにしても連日の蒸し暑さ。東京都城北地区在住の私としては、「規制緩和による汐留乱開発」への怨嗟の念からどうしても抜け切れません。科学的根拠を調べてのことではなく、あくまでも直感からですが。案外直感は頼りになるものです

◇奈良の高校1年生男子が家に放火をし、母子3人を死に至らしめた凄惨な事件。テレビでは識者がうわべだけの解説をしているが、言っている本人たちもあまりハラに入っていない風情がひしひしと伝わってくる。おそらく実感として理解不能なのだろう。◇私は子ども時代の体験から、今回の事件は非常によく分かる。そしてここまでいく前に何とか子どもを救えぬものか、親子の間に割って入る仕事をメーンのひとつに据えたいと常々願っている。だがどういうものか、ニーズとシーズが結びつかない。どこの家でもこのようなことは表に出したくないだろうし、またウチに限って極限まではいかないと高をくくっているからだろう。◇戸塚ヨットスクールとか、東海地区の女性がやっている何とかスクールのようなスパルタでなくとも、違った意味で事態は急転させられるのに、何とも残念なことだ。

◇今回の事件でも、日本ではかならず二分法が登場する。◇片や、とんてもない、厳罰に処すべき。しかし彼らの問題点は、ここですべて思考を停止し、それ以降はぶん投げてしまうこと。極めて特殊な犯罪ならそれでもいいだろうが、類似の事件が頻発しているのに何ら対処しようとはしない。事件が起きるたびに「とんでもない」の唱和でオワリ、というお気楽なものだ。◇言われるまでもなく、私もとんでもないと思う。いくら私が子ども時代に原体験をしているからといって、親を殺したり放火をしたりなど思うことすらなかった。とにかく家を出たいとしか考えなかった。その相違には、やはり現代の特殊性がからんでいるという以外にない。◇IFSAはこれ以降の「通信」において、それらの根を徐々に明らかにしていくであろう。

◇もう一方の意見は、定番の「社会が悪い」。その論法によれば、この高1の子も父親も、ある意味で現代日本社会の被害者ということになる。いつもながら、ベクトルはマクロ情況へと向かい、ミクロは意図したかのようになおざりにされる。◇彼らは各論からは何もくみ取れない。そもそもケーススタディーのベクトルがない。カクメイが起きればこの手の問題は一気に解決すると言っているような、イデオロギーの残滓がまだまだある。本人たちには心外なことだろうが。

◇今回は医師である父親について触れておきたい。彼が実際にどうであったかではなく、こういった情況を惹起する父親の理念型はこんなふうであったろうとして、以下に述べる。◇父親は言うまでもなく子どもを医師にしたい。考えてみればこれ自体も不思議なintentionだが、後日に譲る→夢の実現のためには、女の子では弱すぎ、やはり男の子でなければならない→だから離婚に際し、男の子を引き取る→「こんな成績では医師になれないぞ」の圧迫をかけたと報道されるが、それくらいのことで男の子が追いつめられるはずはない。今時、医師になど楽になれる→たとえば東大・京大、もしくは阪大に入れなければ・・・と、大学名を局限していたと私は想像する。もっと言えば、それ以外は医学部じゃない、大学じゃない、あんな大学を出た者は医師に値しない、と断定していたのではないか。◇息子は「**大学に入れなければ人間じゃない!」に等しい「職圧」を父親から受けていたに違いない。

だからこそのICU(集中治療室→集中勉強室)設置。親におけるこの遊びのなさ、imaginationの欠如、人間性の欠落は聞いているだけで怒鳴り返してやりたくなる→子どもからすれば、これだけで反面教師の資格十分だろう→そして暴力ばかりか、ゲームを川へ捨てたとの話も伝わってくる→「オマエ、いい加減ゲームばかりしてるなよ」から出た、ついカッとしての投げ捨てならまだ可愛げもあるが、ゲーム=息子の人格=だから息子は卑しい=よって、ゲームを投げ捨てる→この行為は、息子の人格を川に投げることを意味し、父親もそれをどこかで意図しながら実行している→当然のこと、息子は真っ先にそれを感得する。◇だから殺人、が短絡的であるのは自明にせよ、彼のなかで徐々に殺意が芽ばえ始めたとてそれほど不思議ではない。◇人間、人格を全否定されることほど堪えられないことはないからだ。

◇父親は息子の耐性を見極めながら、ぐんぐんと圧を上げていく。父親にすれば、まだ余力ありと踏んでいたのに、いつしかレッドゾーンまで。目盛りを読み誤ったという程度のことだろう。◇だが、ヘトヘトになるまでノックを受ける練習をするのとはワケが違う。カテゴリーは人格、指し示すベクトルは全否定。ここが問題の本質なのである。◇そして父親はおそらく、オマエの年頃ではオレはこれほど頑張った、精進した、優秀だった、それに比べてオマエは・・・。もしかすると、この子を産んだ母親の資質に触れたかもしれない。さらには、修練の成果としての、現状の自己高潔ぶりも誇ったことだろう。だがその点では子どもの嗅覚は鋭い。冗談じゃねえ、キレイゴトを言いいやがって、と。◇新聞広告を見る限り、その辺にも週刊誌の取材は及んでいるようだが、まだ見ていないのでコメントはできない。

◇同じ年代の子を持つ親は、この事件に接してほんの一瞬だけヤバイと思い、すぐにウチは無関係、われわれはそんなひどことをしていないから、で解決しようとする。◇「ウチの子は、何の強制もしていないのに自分から塾へ行きたいと言い出し、塾は友だちがいるから面白いと言うんですのよ」。◇本当にそんな子どもがいたら、それ自体をこそ異常と疑わねばならないのにである。(敬称略)

★★[IFSA]★★Michio Abe

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