日本人に根強い漠然とした「自然信仰」-そのイデオロギーが随所で障害となっている
◇日本人は「自然」というコトバが大好き。そこに含意されるのは、それこそ「まっさらな自然」であり、少しでも人手の入ったものは、イメージから排斥される。◇森林でいえば、原生林的なものを求めるわけだ。◇しかしここにも、現代日本人をむしばむ「二分法」の魔手が忍び込む。「自然」か「人工」かといった・・・・・・。◇サプリメントでも、天然成分100%といわれれば信じ込む。天然で有害なものなど、山ほどあるというのに。
◇知床半島の先端や離島の一部は別にして、日本には手つかずの自然などまずない。◇だからこそ、逆に「人工」を施さなければ森林は荒れ果ててしまう。◇日本の森林行政の貧困から、ほったらかされた森がいまどうなっているかを見るだけでも、それは明らかだろう。
◇水田を、自然の象徴のように、大仰に言い立てる進歩的知識人がいる。◇とんでもない。水田づくりほど、古代における大規模な自然破壊もなかった。◇また、たとえば平城京の大寺院。あれだけのものを造営するのに、どれほどの木を切り倒したか。近間の山をはげ山にしてしまい、それでも材木が枯渇した結果、遠く近畿圏以外に材を求めたのは歴史が教えている。◇日本人は古来から自然を大切にしてきた、それなのに近現代の堕落は!そんな単純な話ではないのである。
◇名著『森と人間の文化史』(NHKブックス・1988)のなかで、森林生態学者の只木良也は、白砂青松の「松」は実のところ、人間がその地の環境を荒らしてきた結果にすぎないと言っている。◇松は他の木に比べ、やせた土地でも育ち得る力を持っている。だから、「マツの存在はわが国の自然が酷使されてきたことの指標」だと、只野は記す。◇そして皮肉なことに、アカマツで有名だった京都・嵐山は、風致地区として「保護」されるや肥沃化し、いまは広葉樹林へと一変してしまった。
◇人間が住む地の「自然と」は、白か黒か(自然か人工か)の二分法ではいかないようにできているのがおもしろい。いや、だからこそ取り組み甲斐がある。◇只野は警告する。「わが国に多い半自然に、人為を排するのみの自然保護手段は決して現状維持にはならない。そればかりか、嵐山や赤沢(木曽谷の美しいヒノキ林がアスナロ林に変化-筆者註)のようにかえって危険ですらある。それは自然保護ではなく、自然過保護というべきかも知れない」。
◇只野が投げかけるアイロニーは、日本人の二分法的自然イデオロギーを厳しく突いている。◇「自然」が最高価値で、「人工」はダメ。しかし現実には、われわれの求める「自然」とは、それこそ「半自然」そのものなのではないか。◇江戸から戦前にかけての日本人は、いまよりもずっとそのことを現実的にわきまえていた。◇箱庭もそうだし、神社につくったミニチュア・フジの富士塚もそう。そして、路地裏の植木鉢も半自然の代表格だろう。この中庸の妙味に私はひかれている。
◇また、「見立て」というしゃれた概念も、そこへとつながっている。不忍池を琵琶湖に見立て、王子・飛鳥山周辺をリッチモンドに見立てて。◇さらには、小石川後楽園や六義園も、半自然の見立てだろう。◇これらを、スケールの小さな箱庭趣味とわらう文化人には、そうさせておけばいい。われわれ日本人は、こうした愛すべき半自然を、自然として慈しんできたのだから。
◇しかし、現代の日本人は、その諧謔精神から次第にはなれていってしまった。◇近代化の必然的産物である自分たちの「都市」に対し、それを半自然として大事にするどころか、「東京砂漠」といってはバカにし、顧みなかった。◇丸ビルが倒されようが、もっとマイナーな、日本橋際にあったレンガ造りの大栄不動産ビル(旧帝国製麻ビル・東京駅の辰野金吾設計)が消されようが、誰も反対の声すらあげなかった。
◇それは、ビルなど単なる人工物で、われわれの体内にしみついた「風景としての半自然」と思っていないからであろう。◇それでいながら、思いつきのコイズミ主導で、日本橋上の首都高を、巨費を投じてでもとっぱらえ、などと言い始める。◇背後には、あの地区の「再開発」と規制緩和の思惑が渦巻いているのを隠しながら。
◇ここに、アテネフランセでも教えたという、オギュスタン・ベルク・フランス国立高等研究院教授の興味深い日本人論がある。引用してみたい(『神田川』所収・東京新聞社会部編・同出版局刊・1994年)。
◇「しかし、昔から日本文化の価値観、日本人の心の拠り所は、『自然』にあり、激しく変化した現実との間にズレを生じているという点は、ぜひ指摘したい」。◇「例えば、パリに住む子供たちに、『理想的な都市河川の風景』の想像画をかかせると、建築と調和した都市の河川を描く。しかし東京の子供たちに同じテーマで描かせたら、きっと草がいっぱい生え、建物一つ見えない田舎風の川の風景を描くでしょう」。◇「『日本人は自然志向的な根強い価値観を持つから、逆に人工的な都市の景観の調和という新しい価値観を創り出すことにうとい』という逆説的なことがいえそうです」。
◇田中康夫の、自然礼讃を装った政治的「脱ダム論」にコロッと参ってしまうのも、おそらくは、こうした小さいころからの刷り込みが影響しているのであろう。◇極端な原生林的自然ではなく、われわれの日常生活を取り巻く「都市的半自然」を大切にし、いかにその領分を広めていくか、それこそがもっとも現実的な対応であろうとIFSAは思っている。(敬称略)
★★[IFSA]★★阿部道生
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